ketocotoのブログ

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長く、だらだらとしたもの

 気持ちがむしゃくしゃしてきたからブログを更新することにした。

 今は就職活動の真っ最中で貴意に添えかねたりお祈りされたりしている真っ最中です。前から噂には聞いていたんですが、本当に人格を否定されたような気分になるんですね。

 人並みにツイッターやインスタグラムのアカウントを持っているが、投稿数が多いと他の人に迷惑がかかるのではないか、自分の投稿なんか見たい人がいるのか、投稿した内容に対して不快に思ったりする人がいるのではないかと考えすぎるあまり何も投稿できない、どんな投稿に対してもいいね!を押すことができないなど自分の人間性が見て取れるようなSNSの使い方をしている。

 つまり、自分は他人に対して公共の場であっても仮想現実上であっても他人に対して迷惑を欠けたくないと思っているということだ。その裏返しで、人に迷惑かけないなら何をしてもいいという考えから、あるアカウントの過去の投稿を遡れるだけ遡ってその人のSNS上にある情報のほとんどを入手するという行為を複数回行なっている。いわばネットストーキングのようなものだ。自分だけがしているものなのかなと思っていたが、他人の目をとても気にする私の友人もしていたのでどうやら固有の行為であるというわけではないというのは把握している。

 話が少し逸れた。

 こうして危険性をはらみながらも、他人には迷惑をかけまいとしている私とは正反対に、他人に迷惑をかけようが、結局自分の人生が幸せならばそれでいいという生き方をする人もいる。

 私は、この生き方が心底羨ましい。他人の目なんて気にせず自分がよければそれでいいのだから、厚顔無恥など気にせずに適当なことを喋って、適当な異性と自分の欲望のままに付き合い、自分の意見を通せさえすれば後はどうなっても良いというような意見の出し方をする。少し方向性は違うが、一生会うことはないのだからと通行人の容姿や行動を大きな声でバカにしたり、悪口を言ったりする。

社会にでたこともロクにない私がいうのもなんだが(ここにも他人の気を損ないたくないという自分が現れている)、思うに私たちが生む社会は数々の合意形成のもとで成り立っている。国家と国民の間では、税金を払う代わりに公共サービスを提供する。コンビニと客との間では、金銭を受け渡す代わりに商品を提供する。金銭に限らず、親は子を育て、子はその分将来的にその恩を親に還元する、授業Aのノートを見せてもらう代わりに授業Bのノートを見せてやる、といった具合だ。

 公共の福祉に関する議論は様々な憲法学者や法学者、その他数々の専門家が議論をしているが、私なりの解釈で言えばこうして合意形成の集まる社会においてそれに背くような行為を許さない、というのが公共の福祉に反するということではないかと考えている。それが過去様々な宗教でも教義にもあるよう「他人に迷惑をかけない」の一種ではないかと私は思う。そして私はそれに賛成である。

 私と正反対の生き方をしている人の考えを何度か推考したことがある。だがはっきりとは分からない。例えば、それだけ制約をかけられているのだから、その分どこかで自由を欲して、ある部分ではほとんどアウトだけれども当人としてはセーフだと考えて結果として他人に迷惑をかける行為をしてしまうのだろうかと考えた。しかし当然だが、これは自分が持たない感覚であるからはっきりとは分からない。

 現実世界でも仮想現実でさえも迷惑をかけまいと健気に頑張っている就活中の大学生です。そのような人材を求めている方はご一報ください。生きていけるだけの収入と生活さえ保障していただければ馬車馬のように働きますので。