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人生は修行なり!

 最近頭の中の仮想敵だったり、仮想世論がすごくうるさくて困る。

 

 例えばどこかの有名人がサッカーが好きですと発言したとすると、プレミアリーグも見ていないのにサッカー好きを公言するなとか、私は昔サッカーボールにあたって怪我したことがあるからサッカーが嫌いなのにそんなこと言うなんて傷つきましたとか、野球人気に対する嫉妬ですかとかような意見がどこからともなく湧き上がってきそうな予感がしてしまう。そう、あくまでそんな気がしてしまうだけなのではあるが、それに対して勝手に先回りして自分が反論を頭の中で返してしまう。ネガティブな想像力しか育たないし有用性なんてないのに。

 

 上記の文章を書いた時点で、物事に対して意味を見つけ出すことのみが価値の与えられ方だとするならば、非常に生きづらいし、そういった価値とは別の次元で、評価軸で生きている人に対して失礼ではないか、という仮想意見が飛んでくる。そうですね、すいませんでした、って気持ちになる。

 

 街で歩道を歩いていると、正面から自転車に乗ったご高齢の女性が来た。狭い歩道だったから、ベルを鳴らして私に退けるようにコミュニケーションを取ってきた。私はそれに従った。心の中では、歩道を自転車が走るなよとも思うし、走っていたとしてもベルを鳴らすのは自動車でいうところのクラクションにあたるんだから、道路交通法違反だぞとも思うし、見ず知らずの人に対して威嚇行為を行うなんて非人道的だ、とも思う。しかし冷静になると、私から見えない方向から自動車が来ていて歩道を走らざるを得ない状況だったのかもしれないし、虫の居所が悪かったのかもしれないし、以前いたコミュニティで自分の意見を通さなかったせいで自分の居場所を失う体験をしたからそんなことになるくらいなら多少威圧的であっても意見を通そうという価値体系をもっているのかもしれない。そもそも他者に気を使うことでストレスを感じるくらいなら赤の他人がストレスを負うことで自分への被害を抑えた方が今後の人生がうまく行きやすいという思考だったのかもしれない。なんなら事前に自転車が来ることを予知して避けておくべきだったのかもしれない。以上のかもしれないが仮想意見として頭の中をぐるぐると駆け巡るのである。

 

とっても生きづらいです。どう転んでもストレス感じます。

 

https://omocoro.jp/kiji/186219/

はらつかうさんという方が書いたこちらの記事に感覚は近いです。