ketocotoのブログ

ketocotoのブログです

勢いに身を任せる

本当にその話ばかりして申し訳なく思っているのだが、ワールドカップ面白すぎます。本当に。別にサッカー大好きそれしか書かないブログでも、各国の戦術について鋭い分析をして批判するブログでもなく、ただ日常どのようなことを考えているかや起こった出来事をつらつらと述べるはずではあったのだが、あまりにも面白すぎてそれについてばかり書いてしまっている。もしくは普段の自分の生活に大きな出来事が起こらないのが原因なのかもしれない。私は学生なのだから、その日大学で学んだことをいっぱい書いちゃえばいいのだが、実はそれがあまり面白くないのでこういうことばっかり書いているのかもしれない。ここまで300字弱書いてみて、自分の文末がはっきりしていないことにはちょっとイラついている。最初ですます調で始まったのにいつの間にかである調に変わっていっている。ここまで来たら構成とかリズム感とか読みやすさとかを全く意識せずにだらだら書いていってしまってもいいかもしれない。本当はこんなに長ったらしく書いちゃだめだろう。

 

適切に段落分けをしたり、文字を太くしたり、色を変えてみたりといろいろ読みやすさを作る方法はあるのかもしれないが、まだまだ初心者なのでどのタイミングで変えたらいいかもわかっていないです。

 

 

 

 

 

 

 

またですます調になってる!!!!!!!!

思ったことをアウトプットしづらい

 この記事でブログの更新は7つ目ということになります。自分の予想では四記事くらいでやめるだろうと思っていました(三日坊主よりは一日長くて三日坊主ではないという証明になるから)。七つということは一日一記事読めば一週間たつというとても霧が良い数字です。これからもどんどん記事を書いていってタイピングがうまくなればいいなって思ってます。一か月分くらいの記事をとりあえずの目標に頑張っていきたい所存です。

 このようにだらだらとブログを書いていて気付いたのは、タイピングって難しいなってことです。私が良く打ち間違うキーはTとR、YとT、MとNとBなどです。至極どうでもいいことを書いてしまいましたが、これには理由がありまして、簡単に推測できると思いますが、この辺はキーが近いからです。打ち間違えるというか、Rを打つぞって思っているのに指が言うことを聞かず一つ置くのTへと言ってしまうのです。意識すればするほど行ってしまいます。どうにか治したいとは思っていてもなぜか遠くに行ってしまうのです。じゃあキーボード見ればいいじゃんと思うかもしれませんが、それじゃ練習にならないのでそれは却下したいと思います。早くいいっぱい打てるようになりたいです。

 

新しい形

 あくまで私の体感ですが、若年層のSNS使用割合というのはTwitterInstagramが大体同じくらいで、ついでFacebookぐらいのものだと思っています。TwitterInstagramが人気になったのは情報の即時性、つまり、今現在何をしているかやどう思っているかが今すぐわかるというところにあると私は考えています。あとはまあ見栄の面というのもありますし、特にInstagramではストーリーという機能があり(Facebookにもあるけど今回は省略)、投稿してから24時間たてば消えてしまうといういわば「期限付きのSNS」が後腐れのなさと即時性からその人気を加速させているように思えます。

 ここまでは前書きです。私は大学生なのでそれなりに飲み会などにも参加するのですが、そこでこのような話を聞きました。つまり、ここで山田が高橋を好きであるとして、山田が同性の島崎と遊びに行ったのち、山田と島崎の両方がInstagramにその日遊んだということを楽しそうな写真と共に投稿したとします。山田と島崎どちらもフォローしている高橋が島崎の投稿のみにいいね!をしたとします。それを見た山田が、島崎に嫉妬して高橋になんで私の投稿にはいいね!をしないんだと嫉妬っぽく連絡したり、一緒に遊びに行った島崎の投稿にはいいね!をしなかったりします。

 過去には松浦亜弥YUIはメールでの恋の駆け引きを歌にしました。西野カナはほかの女を好きになった男にその男と自分の思い出を重ねてわけわからんくらい嫉妬したりもしました。しかし現在の若者というのは、メールだけでなく、SNSでも恋の駆け引きをしなければならなくなり、その上電子データ上でめちゃくちゃに嫉妬されたりするようになったのです。上記の話だと駆け引きなんてないのではと思われるかもしれないのですが、そこには島崎がうまく自分だけ写真写りが良いものを投稿したりとか、またその逆もあったりするわけです。そしてその駆け引きや関係性につかれて高橋はSNSをやめてしまったりするわけです。

 これがインターネットと現実をぐちゃぐちゃにかき混ぜて形成された地獄の「新しい形」です。

ブログを更新しました

 完全にブログの更新が滞っていた。以前の記事で三日坊主であることを書いたが、今回ストップしていた理由は飽きてしまったからとかではない。現在行われているFIFAワールドカップを連日夜更かししてみていたところ、完全に体調を崩してしまい、数日間寝込んでしまったのだ。もう少し詳細に書くと、夜更かししながらも課題の作成でパソコンに向き合っているとだんだんと具合が悪くなってしまい体調を崩してしまったのだ。そのため少し復調しても画面を見ると具合が悪くなってしまうため更新などできなかったのである。

 それにしても体調を崩させてしまうほど面白いワールドカップにも少しは罪があると思う。今回は特に面白い。どこが優勝するか全く読めない。強豪と呼ばれるチームがグループリーグでさえ抜けるのに苦労している。FIFAランキング会のチームが上位のチームを破ることもしばしば起こっている。波乱に満ちた今大会である。そりゃ風邪をひくわけである。

認知の問題

   ついさっきFIFAワールドカップグループリーグのドイツ対メキシコの試合が終わったところだ。結果は1-0でメキシコの勝利。前回大会王者のドイツが初戦で敗れる波乱の展開であるとともに、ディフェンディングチャンピオンは苦戦をするというジンクスにも当てはまるものとなった。大学生である身分を存分に生かして本大会を楽しんでいる。こんなにも楽しいワールドカップは初めてだ。

 とまあ、こんな風にだらだらと何かを述べたところで、アクセス数2018年6月18日二時現在でアクセス数4(うち2が自分)であるこのブログを読んでいる人など本当に誰もいないのである。何を言っても誰にも咎められないしそして言及もされないというのは少々気が楽なものである。ジョージバークリーは誰もいない森の中で木が倒れたときに、倒れた音はするのかという存在と知覚の哲学を投げかけたが、このブログも同じで、誰も読んでいないブログの中で過激な発言をしたとき、それが認知されない限り、何も言ってないのと同じことなのである。そしてこのブログを誰かが見つける確率というのは、私自身がこのブログの存在を周知していないため、非常に低いものとなっている。よって私がどんなにいろいろな物事を書き連ねようとも、その存在が認知されない限り、何も書いてないのと同様なのである。

 小難しいことを書く癖が出始めたのでそろそろ終了する。

FIFAワールドカップが始まっています

 先週の木曜の夜からFIFAワールドカップが始まっている。開催二日目でスペイン対ポルトガルというビッグマッチが行われ、非常に白熱した展開で世界中を沸かせた。各国絶対に負けられないという気迫が見られ、やはりワールドカップに賭ける重いのは非常に強いのだなとうかがえ、見ているこちらもハラハラしてくるものだ。

 また、選手や監督だけでなく、うまく試合をコントロールしようとする審判や、試合の臨場感や戦術をうまく伝えようとする実況解説、世界に向けてよりよいシーンを届けようとするカメラマンや放送局など様々な熱い想いがこのワールドカップに向けられていることが感じられる。

 それを夜更かしして眠い目をこすりながら何試合も見続けるというのはとても大学生らしいことをしていると大学生の身分ながら感じている。それと同時に、こんなに何もしていなくてよいのかとも感じてしまう。自分、熱量なさすぎでは????と何度も何度も感じている。

 そうした暗い感情もうっすらと隠しながら見るFIFAワールドカップロシア大会、始まっています。どの試合も大体面白いので是非ご覧になってください。

自分の性格について

 二回目にしてもはや書くことがなくなってしまった。これはまずい。私は、その気質としては、三日坊主である。今まで様々なものを続けようとしてきたが、何一つとして続いたものはない。筋トレは一週間くらいで、英語の勉強は本当に3日くらいでやめてしまった。そのうちまた何かのきっかけで始めることになるのだが、それもまた結局終わるのである。

 なぜ自分がこうも飽きっぽいのかを考えてみる。

 まず初めに、その趣味を、今後の自分の人生に役立つものにしようとしてしまうからということだろう。上に挙げたものでいうならば、筋トレは自分の体を鍛えることで健康の維持や地震の見た目が良くなることで社会的位置取りをとろうとする、簡単に言えばモテようとするからである。英語の勉強なんかはまさしくその通りで、将来役に立つと思ってやろうとしていることに問題がある。

 次に考えられるのは、受動的でインドアな体質である。今までの自分の人生を振り返ってみると、親から勉強をしろとか、学校ではこうしなければならないとかいったような「上」から与えられたものを「消費」する生活であった。そこには積極性は見られず、受動的である。こうした「消費」に疲れてしまい、外に出るのがおっくうになるのである。それに、外は常に自由で、与えられるものはなにもない。与えられるものがないと「消費」ができず困ってしまい、つまり暇になり、また疲れてくるのである。よってインドアな体質になるのである。

 飽き性な人間の多くは上述した理由にあてはまるのではないかと私は推測している。誰かが頭の中で考え出したものというのはよっぽどのことがない限りほかの誰かも考えていることであり、結局思いついた考えというのは一般的であったりするからである。私は、自分自身のことをゆとり世代が生み出した平々凡々な無個性人間であると考えているので、前提条件が正しければ、飽き性な人間は上述した性格に当てはまるのである。