ketocotoのブログ

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人生は修行なり!

 最近頭の中の仮想敵だったり、仮想世論がすごくうるさくて困る。

 

 例えばどこかの有名人がサッカーが好きですと発言したとすると、プレミアリーグも見ていないのにサッカー好きを公言するなとか、私は昔サッカーボールにあたって怪我したことがあるからサッカーが嫌いなのにそんなこと言うなんて傷つきましたとか、野球人気に対する嫉妬ですかとかような意見がどこからともなく湧き上がってきそうな予感がしてしまう。そう、あくまでそんな気がしてしまうだけなのではあるが、それに対して勝手に先回りして自分が反論を頭の中で返してしまう。ネガティブな想像力しか育たないし有用性なんてないのに。

 

 上記の文章を書いた時点で、物事に対して意味を見つけ出すことのみが価値の与えられ方だとするならば、非常に生きづらいし、そういった価値とは別の次元で、評価軸で生きている人に対して失礼ではないか、という仮想意見が飛んでくる。そうですね、すいませんでした、って気持ちになる。

 

 街で歩道を歩いていると、正面から自転車に乗ったご高齢の女性が来た。狭い歩道だったから、ベルを鳴らして私に退けるようにコミュニケーションを取ってきた。私はそれに従った。心の中では、歩道を自転車が走るなよとも思うし、走っていたとしてもベルを鳴らすのは自動車でいうところのクラクションにあたるんだから、道路交通法違反だぞとも思うし、見ず知らずの人に対して威嚇行為を行うなんて非人道的だ、とも思う。しかし冷静になると、私から見えない方向から自動車が来ていて歩道を走らざるを得ない状況だったのかもしれないし、虫の居所が悪かったのかもしれないし、以前いたコミュニティで自分の意見を通さなかったせいで自分の居場所を失う体験をしたからそんなことになるくらいなら多少威圧的であっても意見を通そうという価値体系をもっているのかもしれない。そもそも他者に気を使うことでストレスを感じるくらいなら赤の他人がストレスを負うことで自分への被害を抑えた方が今後の人生がうまく行きやすいという思考だったのかもしれない。なんなら事前に自転車が来ることを予知して避けておくべきだったのかもしれない。以上のかもしれないが仮想意見として頭の中をぐるぐると駆け巡るのである。

 

とっても生きづらいです。どう転んでもストレス感じます。

 

https://omocoro.jp/kiji/186219/

はらつかうさんという方が書いたこちらの記事に感覚は近いです。

お話苦手

 最近、人に口で説明するのが難しいと感じるようになってきた。専門性の高いことでも、日常で起こったことであってもである。

 伝えたいこと、話したいことがうまく説明できない理由は、その事象が頭の中で輪郭が伴っていないからである。ある事象Aを話そうとするときに、きちんとした形になっていない、あやふやなまま、ある部分では言語化されていない、というような状態になっているAに対して、言葉でそれを形作るという作業が苦手なようである。

 これは特に会話の中で顕著で、人に説明しているとき、まるで幽体離脱したかのように、自分が何言っているのかわからなくなることが多々ある。何の変哲も無い、日常的なキャッチボールであるならば全く問題は無いが、少しでも説明という性質が加わったときに、脳みそが酸欠状態になってしまう。脳みそが酸欠状態になるとどうなるか、何も考えられなくなってしまう。

 自分としてはこうなることを治したいのだが、その原因が何であるのかがまだハッキリしていない。説明するために息を吐き続けることで脳に酸素が行き渡らなくなっているのか、会話と思考の同時進行のために脳がフル活動しているため酸素が足りなくなってしまっているのか、鼻炎で鼻が詰まっているから呼吸活動に支障が出ているか、そのほかの理由なのか、一体何なのだろうか。

 文章にしてこうゆっくりと文字を打ち込んでいる分には酸欠状態にはならないので、“会話している”というステータスに応じて酸欠になっておいるのかもしれない。一種のパブロフの犬状態なのかもしれない。全く関係ないが、推測ばかりの文章になってきて嫌気がさしてきた。これにて終了。

 

疲れた〜

就職活動真っ最中である。

 

全国のたくさんの企業からは「お前は誰だ。400字以内でご回答ください。」というようなご質問をよくいただいている。だから毎日自分が何者かを考えさせられる。自分が何をしたくて、どうなりたくて、それはどのような経験からで、どのような困難を乗り越え、何に力を入れてきたかを毎日考えている。

 

はっきり言って、自分が何者かなんてよくわからない。人並みに勉強して、人並みに大学に入り、人並みの生活を送っていると考えている。何も立派なことはしていない。自分のセールスポイントなんてない。日本のどこかを探せばほとんど自分と同じような性質、能力を持った人がいると思う。そこに差別化なんてされない。しかし、自分は他の人とは違うということをアピールしなくてはならない。

 

誰しも他人とは違う自分固有の特別な人生を送ろうとする。海外に留学してみたり、サークルを立ち上げたり、なんなら起業してみたりもする。確かにそれは特異な経験になるかもしれない。だが、一歩引いて考えてみた時、必ず先行されているはずである。そしてその内容も必ずどこか似通ったものになる。細かい部分で見れば違うのかもしれないが、その人にとっては重要であっても、他人からしたら違いなんてわからないのである。

 

そう考えれば、私の強みというのは無個性であることなのかもしれない。世界で最も競技人口が多いサッカーが好き、日本人なら誰しも一度は読んだことがあるような漫画が好き。誰しもがそれなりの努力をすれば入れるような大学に通い、成績は平均よりは少し下。そこそこに音楽も聞くし、そこそこに本だって読む。恥をかかないくらいの服を着て、恥をかかないくらいの髪型で、恥をかかないように外を出歩く。無個性が故にどこに行っても当てはまるし、どこに行っても可もなく不可もないような人生を送るだろう。

 

自分は努力不足なのかもしれない。しかし、努力することが嫌いというわけではない。努力してでも獲得したいようなスキル、経験がいまいち思い浮かばない。端的に言えば、努力する先が見つからないのだ。よく、最近の若者は夢がないとかいわれる(これは現代に限らずいつの時代も言われてきたものだと思うが)。夢は公務員、普通に過ごして週末は趣味のことをしたいです、という人が増えたらしい。こういうときよく聞く意見としては、日本はここ20年くらい不景気で、夢を叶えるだけの土台ができていないから若者も夢がなくなるのだというものがある。将来への不安から現実的な思考になるというものだ。だが私が思うに、その理由もあるが、夢になるほど魅力的な職業等がないということのほうが事実に即しているのではないだろうか。

 

 

長く、だらだらとしたもの

 気持ちがむしゃくしゃしてきたからブログを更新することにした。

 今は就職活動の真っ最中で貴意に添えかねたりお祈りされたりしている真っ最中です。前から噂には聞いていたんですが、本当に人格を否定されたような気分になるんですね。

 人並みにツイッターやインスタグラムのアカウントを持っているが、投稿数が多いと他の人に迷惑がかかるのではないか、自分の投稿なんか見たい人がいるのか、投稿した内容に対して不快に思ったりする人がいるのではないかと考えすぎるあまり何も投稿できない、どんな投稿に対してもいいね!を押すことができないなど自分の人間性が見て取れるようなSNSの使い方をしている。

 つまり、自分は他人に対して公共の場であっても仮想現実上であっても他人に対して迷惑を欠けたくないと思っているということだ。その裏返しで、人に迷惑かけないなら何をしてもいいという考えから、あるアカウントの過去の投稿を遡れるだけ遡ってその人のSNS上にある情報のほとんどを入手するという行為を複数回行なっている。いわばネットストーキングのようなものだ。自分だけがしているものなのかなと思っていたが、他人の目をとても気にする私の友人もしていたのでどうやら固有の行為であるというわけではないというのは把握している。

 話が少し逸れた。

 こうして危険性をはらみながらも、他人には迷惑をかけまいとしている私とは正反対に、他人に迷惑をかけようが、結局自分の人生が幸せならばそれでいいという生き方をする人もいる。

 私は、この生き方が心底羨ましい。他人の目なんて気にせず自分がよければそれでいいのだから、厚顔無恥など気にせずに適当なことを喋って、適当な異性と自分の欲望のままに付き合い、自分の意見を通せさえすれば後はどうなっても良いというような意見の出し方をする。少し方向性は違うが、一生会うことはないのだからと通行人の容姿や行動を大きな声でバカにしたり、悪口を言ったりする。

社会にでたこともロクにない私がいうのもなんだが(ここにも他人の気を損ないたくないという自分が現れている)、思うに私たちが生む社会は数々の合意形成のもとで成り立っている。国家と国民の間では、税金を払う代わりに公共サービスを提供する。コンビニと客との間では、金銭を受け渡す代わりに商品を提供する。金銭に限らず、親は子を育て、子はその分将来的にその恩を親に還元する、授業Aのノートを見せてもらう代わりに授業Bのノートを見せてやる、といった具合だ。

 公共の福祉に関する議論は様々な憲法学者や法学者、その他数々の専門家が議論をしているが、私なりの解釈で言えばこうして合意形成の集まる社会においてそれに背くような行為を許さない、というのが公共の福祉に反するということではないかと考えている。それが過去様々な宗教でも教義にもあるよう「他人に迷惑をかけない」の一種ではないかと私は思う。そして私はそれに賛成である。

 私と正反対の生き方をしている人の考えを何度か推考したことがある。だがはっきりとは分からない。例えば、それだけ制約をかけられているのだから、その分どこかで自由を欲して、ある部分ではほとんどアウトだけれども当人としてはセーフだと考えて結果として他人に迷惑をかける行為をしてしまうのだろうかと考えた。しかし当然だが、これは自分が持たない感覚であるからはっきりとは分からない。

 現実世界でも仮想現実でさえも迷惑をかけまいと健気に頑張っている就活中の大学生です。そのような人材を求めている方はご一報ください。生きていけるだけの収入と生活さえ保障していただければ馬車馬のように働きますので。

ブログを更新しました

 めちゃくちゃ久しぶりに更新、文体の一致とかは気にしないスタイル。

 

 書きたい気持ちはあったんですけど、何かと忙しくてかけなかったり、PCを開くのがめんどくさくて更新しなかったです。何もかもが終わってはいませんが、年末に入り多少時間ができたので更新してみようと思いました。あとは、最近noteとかを名前も顔も知っているような友達がやり始めて文字を打ち込みたい欲が増したって感じです。

  でも別に書くことはないです。今日はクリスマスですが、かと言ってこれといった用事もありません。クリスマスの思い出も特にありません。クリスマスに誰かと過ごしたのって四年くらい前が最後だと思います。三回クリスマスって言ったんでクリスマスについて書いてみようかな。

 

 クリスマスに対する態度は、特に興味なしです。街はクリスマスに染まり、各種メディアではクリスマスソング特集が組まれるなどして国民に対して否が応でもクリスマスを意識させますが、そのような圧力には屈せず、屈しないというよりかは受け流すというスタンスをとっています。

 そうなると、クリスマスらしいことは何もしないということになりますが、実家住まいの私は、そのムードに浮かれ切った家族に付き合う形で、チキンやケーキを食べ、スピーカから流れるクリスマスソングを聞くなどをすることになります。もし一人暮らしをしていたなら、本当に何もせず過ごすのだと思います。

 というか、日本に限った話じゃないかもしれないですけど、日本発祥ではない日本で行われる季節のイベントって、本当に皆望んでいるものなんですか?クリスマスもキリスト教由来のイベントを日本に取り込んでクリスマス商戦なんかをしているわけですが、誰も何も言わなくなったらクリスマス(というイベント)は消滅して12月は徐々に年が更けていくのことになるんですかね。

 ハロウィンもそうで、というよりかは少し前まではそうだったんですけど、もしイベントがなくなったらただの月末ですよね。ハロウィンがあるから仮装したりトラックを押し倒したりするわけで。

 バレンタイン、ホワイトデーもそうですよね。自分の恋心、気持ちを伝えたいが勇気が出なくてきっかけがほしい、って人にはもってこいですが、形骸化しているところも多く見られます。

 

 イベントだけではなく、そもそも望んだものとは大きくかけ離れているものって結構多いように思います。運動会を例として挙げると、wikipediaというソースが弱いものによると、「日本における運動会の発足は「国威発揚」「富国強兵」「健康増進」を目的として」いるようです。健康を増進させるならば運動させるべきで、それなら行事として催して強制参加させれば強制的に運動して強制的に健康になるだろう、というような感じで始まったぽいです。

 今の運動会への参加の態度を見ると、体感ベースですが、徒競走で一番になりたいとか、応援を楽しみたいとか、公衆の面前で恥をかくのは勘弁だからどの種目にも出たくないとか、うちの子どもが熱中症になったり日焼けしたりすると困るから外に何時間も放置させたくないとか、運動会は朝早くから始まるからお弁当を作るのが大変だとか、そんな感じです。各々が注目するポイントは変わり、もともとあった健康増進という目的に対して焦点があまり当たらなくなているように思えます。

 そして、その参加への態度というのは、当たり前かもしれませんが、運動会あっての態度であり、運動会がなければこのような考え方というのは生まれません。つまり、運動会が先にあってそこにどうアプローチするかというものになっていて、運動不足解消のような健康増進を目的としてどう行動するかはあまり考えられていないように思います。

 ここで長くなった話が戻ってきて、健康増進したいから運動会をやろうという人はあまりいないということです。そして、仮装がしたいからハロウィンをやってくれって人も、告白がしたいからバレンタインよ来てくれって人も、プレゼントを贈ったり恋人といちゃつきたいからクリスマスを開催してくれって人もいないと私は思うわけです。なぜなら、仮装がしたい人は勝手に仮装するし、告白したい人は勝手に告白するし、恋人たちは何を言わなくても勝手にいちゃつくしプレゼントを贈るからです。月並みな言い方をすれば、私たちは商業戦略として勝手に作り出されたムードに半ば強制的に乗っかりそのイベントをこなしてるわけです。たとえ商業戦略がなくても、我々はイベントを待ち望み、そして誰かが勝手にイベントを開催するようになるのでしょうか。

 

こういったどうでもいいことを話そうとすると離れていくわけですが、こういうこと話したい人っていないいんですかね?クリスマスからも結局かけ離れました。

勢いに身を任せる

本当にその話ばかりして申し訳なく思っているのだが、ワールドカップ面白すぎます。本当に。別にサッカー大好きそれしか書かないブログでも、各国の戦術について鋭い分析をして批判するブログでもなく、ただ日常どのようなことを考えているかや起こった出来事をつらつらと述べるはずではあったのだが、あまりにも面白すぎてそれについてばかり書いてしまっている。もしくは普段の自分の生活に大きな出来事が起こらないのが原因なのかもしれない。私は学生なのだから、その日大学で学んだことをいっぱい書いちゃえばいいのだが、実はそれがあまり面白くないのでこういうことばっかり書いているのかもしれない。ここまで300字弱書いてみて、自分の文末がはっきりしていないことにはちょっとイラついている。最初ですます調で始まったのにいつの間にかである調に変わっていっている。ここまで来たら構成とかリズム感とか読みやすさとかを全く意識せずにだらだら書いていってしまってもいいかもしれない。本当はこんなに長ったらしく書いちゃだめだろう。

 

適切に段落分けをしたり、文字を太くしたり、色を変えてみたりといろいろ読みやすさを作る方法はあるのかもしれないが、まだまだ初心者なのでどのタイミングで変えたらいいかもわかっていないです。

 

 

 

 

 

 

 

またですます調になってる!!!!!!!!

思ったことをアウトプットしづらい

 この記事でブログの更新は7つ目ということになります。自分の予想では四記事くらいでやめるだろうと思っていました(三日坊主よりは一日長くて三日坊主ではないという証明になるから)。七つということは一日一記事読めば一週間たつというとても霧が良い数字です。これからもどんどん記事を書いていってタイピングがうまくなればいいなって思ってます。一か月分くらいの記事をとりあえずの目標に頑張っていきたい所存です。

 このようにだらだらとブログを書いていて気付いたのは、タイピングって難しいなってことです。私が良く打ち間違うキーはTとR、YとT、MとNとBなどです。至極どうでもいいことを書いてしまいましたが、これには理由がありまして、簡単に推測できると思いますが、この辺はキーが近いからです。打ち間違えるというか、Rを打つぞって思っているのに指が言うことを聞かず一つ置くのTへと言ってしまうのです。意識すればするほど行ってしまいます。どうにか治したいとは思っていてもなぜか遠くに行ってしまうのです。じゃあキーボード見ればいいじゃんと思うかもしれませんが、それじゃ練習にならないのでそれは却下したいと思います。早くいいっぱい打てるようになりたいです。